2010-08-04

ウルトラQ 第21話『宇宙指令M774』

シリーズ全体を通して「怪しさ」を醸し出す、不朽の名作『ウルトラQ』.
その中でも、最後まで不気味さが抜けきらない名作だと私が感じるのが、第21話『宇宙指令M774』だ.

直感的な印象としては、怪獣「ボスタング」の、地球征服という目的とスケールのかけ離れた感じから、やや尻窄んだと捉えられてもおかしくない作品である.
しかし、一歩踏み込んでみると、このストーリーは一貫して、描かれている「不信感」が、非常に鮮やかである.

ストーリーは、由利子が船上で不気味な人形と出会うところから始まる.人形は言う.
「私の名は<ゼミ>.ルパーツ星人です.地球人に警告します.地球に怪獣<ボスタング>が侵入しました...」
由利子は慌てて万城目と一平の元に走ってゆく.ふたりとも、相手にしない.しかし由利子は言う.人形が口を聞いた.宇宙人が警告してきた、と.

万丈目と一平が乗ったセスナは、突然操縦の自由を奪われる.二人は、見知らぬ山奥にたどり着く.そこで見つけたロッジには、レコードの自動演奏機があった.演奏機はひとりでに動き出す.
「私の名は<ゼミ>.ルパーツ星人です.地球人に警告します.地球に怪獣<ボスタング>が侵入しました...」
あの時の声だ.それでも、二人はその声の主を信じることが出来ない.そんな間にも、<ボスタング>は猛威をふるう.

<ゼミ>の言った通り、3人は中央図書館に向かい、地球人に扮した<ゼミ>と出会う.彼女から<ボスタング>について聞き、早速海軍の元へとゆく.

待っていたのは、同じような「不信」であった.船長は言う.
「怪獣にやられた?」
<ゼミ>はまっすぐに答える.
「そうです.<ボスタング>がやったのです.」
明らかに信じない目付きをする船長.
「しかし、確証はないんでしょう?」
「<ボスタング>がやったのです.」
<ゼミ>の答えはいたってシンプルだ.
「そんな怪獣がいるんですか.」と船員が聞いても、<ゼミ>は、
「います.」
としか答えない.

ここで、私たちが抱く不信感が顕になる.
万丈目も、由利子も、一平も、ずっとこんな事件を目の当たりにしてきた.私たちも、それをずっと目にしてきた.ともすると、彼らが<ゼミ>の言うことを信じて、このストーリーが進んでゆくのも、どこかすんなりと受け入れてしまう.
しかし、海軍の連中は全くもって信じない.目の前の女性が宇宙人だとすら思っていない.
理由も述べずに<ボスタング>の存在を主張する<ゼミ>の姿も手伝い、私たちも急に思い始めるのだ.「本当に、この女が言っていることは本当なのか」と.もしかしたら、最後でどんでん返しが待っていて、この女が地球の征服を試みるのではないかとさえ、私はドキドキした.

万城目たちと<ゼミ>は、海軍の船に乗り込み、海へ出た.そして、お約束のように<ボスタング>に遭遇する.
<ゼミ>は、船のエンジンを止めるように指示をする.<ゼミ>によれば、怪獣は音に反応して襲いかかるのだという.海の上を走っていた<ボスタング>は静まった.
しかし、音を出したら<ボスタング>に襲われるという状況の下、まったく身動きを取ることができなくなってしまった.

我慢が限界を超えた船員が言い始める.
「船長、全速一杯で脱出しましょう.」
「じっとしているよりマシだ!」
「脱出可能かもしれないんだ!怪獣が必ず、エンジン音に襲いかかるという確証は無いわけだろ!」
万城目は反論する.
「この人を疑うわけですか.」
「そうじゃない.みんなこの人を信用し過ぎなんじゃないのか.」
この船員の発言が、私たちにはもっともに聞こえる.万城目たちが、疑いもなしに<ゼミ>を信用しているのではないのだろうか.
<ゼミ>を信じるか否か、このストーリーのテーマがもっとも如実に表れるシーンである.

結局、船のエンジンを動かすことでこちらに向かってきた<ボスタング>へ攻撃を加え、さらに空からの応援部隊が加わったことも助けになり、<ボスタング>を退治することが出来た.しかし、<ゼミ>は<ボスタング>から逃げたり動きを止める助言はしても、退治へのヒントは示さなかった.ここも、モヤモヤが残る要因の一つだ.

地球の平和は保たれ、<ゼミ>は自らの任務を終えて、地球人として地球に住み着くことを打ち明ける.続いて、万城目たちに告げるのだ.
「この地球には、私と同じように、地球を護るために宇宙から来て、そのまま住み着いた人がたくさんいるのです.」
すると、<ゼミ>の特徴的なサンダルを履いた人間が、そこかしこに、たくさんいるのだ.
「あの人も・・・あの人も・・・あの人も・・・あの人も・・・」
そして最後に<ゼミ>は言うのだ.
「あなたの隣の方、その人も宇宙人かもしれませんよ」
この終わり方、ウルトラQでも名高い『バルンガ』の終わり方に、そっくりだ.

私たちは、盲目的に何かを信じているかも知れない.しかし、一度疑い始めたとき、疑いはキリが無くなる.この恐怖の描かれ方がたまらない.

結局この後、たくさんの宇宙人が地球にやってきて、私たち人間を救うことになる.しかし、彼ら光の巨人には疑いの目を向けた人もこれまでたくさんいた.そして、科学特捜隊のイデのように、「あいつウルトラマンなんじゃないのか?」と疑いを向けた人物もいる.
ともするとご都合主義のトントン拍子で話が進んでもおかしくないゴールデンタイムの30分特撮番組.そこにもうひとつ奥行きを出してくれる、ウルトラシリーズに見え隠れする「疑心」の存在に注目させてくれる、素晴らしい作品なのだと思えてならない.

2010-07-11

【RR2】FlowerのマイクスタンドはMariaなんじゃないか説

Visualiveの感想を書こうと思っても時間がない中、いきなり書き始めたのが突飛押しもないアイディア.
正直、意味が分からないのではないでしょうか.



Gackt Visualive Tour 2009 Requiem et Reminiscence II ~鎮魂と再生~
この、Visualiveという言葉の、Gacktの言う意味と、更に僕なりの解釈というのはまた別の機会ということにして、
とにかく、Gackt曰く、様々なことを考慮して作ってあるこのライブ.
すべての表現に意味があり、答えは無限大であるというのが、Visualiveの魅力のひとつだと思う.

そのVisualiveの17曲目"Flower"のマイクスタンドが、このRequiem et Reminiscenceという物語のヒロインの一人、マリアに見えてしまったのは、このYoutubeでいうと5:10あたり.
このカット、正直に言って世の中不評すぎるこのVisualiveのDVDの魅力をぐっと詰め込んだ一瞬だと思う.
歌ってる姿でも、ギターを弾いている姿でも、圧倒されている観客でもない、倒れたマイクスタンドと、照明が映し出す光、それも力強く照らされているわけではない.
確かに普通の映像表現としてありうると思うのだが、この"Flower"という虚無感と究極の愛を表した曲というバックグラウンドが加わると、このワンカットが物語のワンシーンを模写したものに見えてくるのだ.

マリアは、大学で出来た友人アサクラを庇って銃殺された.その頃にはZero、かつてのレイも死んでいる.物語の展開として、死んだマリアをZeroが見ることは出来ないのだけれども、Zeroが倒れたマリアを前にして悲しみにくれているんだ、このライブのシーンが見えてならない.
いや、そもそもFlower(春)の時間軸は、Lost Angels(冬)よりも後(コレは本人がインタビューの中で発言していた)であるから、、、と考え出すとわからなくなる.
そういう細かいことを考えると真っ先にありえない説なのだが、このワンカットの説得力を思うと、こんな考え方も許してほしいなと思うのである.



2010-07-08

【フランクに真面目な議論】草野仁がスポーツ界に呈した苦言が、音楽業界にも言えるのではないだろうか

全然ブログなど書かないが、書きたいアイディアが湧いたので書く.

今年に入って、かの「うたばん」が終わってしまった.
私が、今は自分の生活になくてはならないGacktさんと出会ったのが、ほかでもないこの「うたばん」であったのだから、本当に残念でならなかった.
私が好きだった時代のうたばんは、それぞれのアーティストの魅力を活かすトークが展開されていた.モーニング娘。、嵐、Gackt・・・
よく分からなくなってきたのは、コメディアンなどが出るようになって、その割合がどんどん大きくなってきたとき.久しぶりにこの番組を見たとき、昔感じていた魅力が全くなくなっていた.


Gacktが2nd album"Rebirth"をドロップした際の音専誌『uv』で、広瀬充が書いていた言葉が非常に印象的だった.僕は、Gacktはアルバムアーティストだと思っている.だから、『君のためにできること』を初めて訊いた時も、それだけを「すばらしい」とは言わなかった.アルバムの中で、どのような輝きをするのかを感じて、はじめて賞賛の言葉を口にしたい、といった旨の言葉だった.

僕も、Gacktにはこういった魅力を感じていた.一つひとつの楽曲の振れ幅は大きく、でも全てひとつのストーリーから派生していて、アルバムを通して、またはライブでのアプローチを観ることで、そのアイディアを知ったときの感動が半端ない.
そんな彼だから、シングルをドロップした際にテレビ番組に出て、他愛もないトークをして、シングル曲を歌うというPRは、ちょっと彼には合わないんじゃないのかな、そうずっと感じていたが、うまく言葉にならなくて引っかかっていた.


思い起こしてみると、民放の音楽番組は、どれも音楽の話でもなく人生論でもなくフリートークをして、曲を3分に縮めて歌う.3分に縮めることで、これぞ!という説得力ある言葉が削られたり、あるべき感情の高揚も省かれてしまう.Music Stationも、うたばんも、Hey×3も、Music Fighterも全部そうだ.
トークは面白いが、曲を3分見せられただけで、なんだかなー、と思って終わり.音楽市場が広がるわけでもないし、それじゃCDも売れない.

先日、草野仁が新書をリリースしたが、その中で、近年のスポーツキャスターに苦言を呈していた.
最近のスポーツキャスターは、その競技について下調べをするわけでも、詳しくなるわけでもない.それで、調子はどうですか、今日は何を食べましたか、そんなどうでもいい話しか選手にインタビューしない.競技の醍醐味を伝えるわけでもなく、その競技の玄人を唸らせる話を引き出すわけでもない.「最近グリップが下がっているように見えるのですが、どうされたのですか?」「ステップを狭めているようですが、何か意図があるのですか?」そんな質問ができたら.そんな内容の話だった.
確かにそうだ、今一番面白い野球のデレビ企画は、Get Sportsで栗山巧が選手に行うインタビュー.ツイスト理論の話、非常にエキサイティングだった.


森田一義も、石橋貴明も、中居正広も、ダウンタウンも、キングコングも、そんな音楽には素養がない.笑うことは出来ないかも知れないが、「今作はいつもになくアコギが前に出てるけど、どういう感じで作ったの?」そんな話を、音専誌ではなく、テレビで聞けたら.
佐野元春のThe Songwriterという番組があると最近知ったが、是非見てみたいものだ.というか、先日テレビでやっているのを見かけたが、父親にチャンネル覇権を奪われてしまった.

そんな重い話が、そのアーティストのファンではない視聴者にうけないというのなら、例えばテレビ番組上で、プロのアーティストによる対バン形式の音楽番組なんて面白いのではないだろうか.
こう思うにはいくつか理由がある.
まず、新曲1曲というわけではなく、数曲を演奏できる機会であること.楽曲ではなく、アーティストに大きな興味を持たせる、いいPRの場になるのではないだろうか.
つぎに、ライブであるということ.300人でいいから観客を入れればいい.臨場感があって、アーティストによっては煽りや掛け合いがあれば、なお良しだ.
そして、対バンであること.別のアーティスト興味で来た観客を、どれだけ自分に引き込むことができるか.どれだけ感動させられるか.アーティストも必死になるし、観客や視聴者が惹きつけられる、とてもおおきな力学がはたらく.
Gacktは2003年に、アマチュアのライブハウスに、シークレットで対バンを仕掛けたことがあった.自分たちの原点を忘れず、しかも自分のファンではない人たちにどれだけ響くステージが出来るか、試したかったのだという.
去年、彼はアニメロサマーライブに出演した.直前のインタビューで「イベントに出る限りは対バン.自分の名を引っさげてやるんだ.ただ出るなら、セッションで僕がドラムを叩くだけでもいいじゃないか.でも、僕は自分のバンドを引き連れ歌うんだ.」歌う声優を目当てに来た野郎どもを、ここまで煽る彼に、こんなアイディアの潜在的な可能性を感じるのだが.
そして、ライブなのだから、格安でチケット販売すれば、収益も見込めるかもしれない.

2010-03-09

ネットサービスのアカウントについて考える①

唐突に記事を書き始めるが気にしない.そのうちデザインもリンクとかもいじるがとりあえず後回し.

携帯電話をANDROID搭載モデルにしてもうそろそろ半年が経とうとしている.つまりは、docomoサーバーのメールアドレスを捨ててGmailを使い始めてからそれくらいが経とうとしているんだけど、最近変な不安にかられたりする.

Docomoのアドレスを使っている間は、Docomoとの書面での契約が破棄されればそのアドレスは使えなくなる.コレは手続き的には結構面倒であるように思われる.
一方で、Gmailだったら、詳しく調べたわけじゃないけど、数回のクリックで総てのアカウント情報を捨て去ることが出来るわけだ.

Googleのサービスを捨てた例はあんまり聞いた事がないけれど、mixiのアカウントを捨て去る人は結構たくさん見てきたつもりである.アカウントとまでは言わなくても、過去の日記を消してしまう人はたくさんいる.案外近くの人でもやっているから驚く.
こういう所も考えた事ないんだけど、素人目に見て、なんか自傷に近いものが有るのかなと考えてしまうんだよ、この現象.

ちょっと逸れたので戻るけど、それくらいネットサービスのアカウントって、簡単に消去して戻せなくなっちゃうモノだって言うのは、高校生の時からずーっと感じてたことなんだよね.
感じてたと言うよりならったって言うのが正しいのかもしれないけど.っていうのは、高校1年生の時に某大学の情報系の先生の話を聞いたことがあって.紙や石碑に書いた情報っていうのは何千年も残ってきた実績があるけど、ハードディスクやコンパクトディスクに残した情報って、そのまま数十年残せるかどうか微妙なところがあるんだって.それがこれからの情報ストレージっていう分野の課題だ、みたいな話をしてたんだけど.
結局のところ、ネット上に落ちてたり残したりする情報って全部、誰かしらのサーバーにストレージされているってことでしょ.大規模な天変地異で消え去ることもあるし、容量とるくらいなら数クリックで情報が消せる方が、サーバー側としても好都合だよ.
そしたら、クラウドコンピューティングにはものすごい不安があるよね.OSやHDDの情報を総てGoogleとかのサーバーに置くわけだから.
もちろん、個人情報の問題もあるけれど.

ちょっと、しばらくこのことを考えてみようかな.疑問点は
・自傷の理由、メカニズム的なこと
・情報ストレージの脆弱性
・クラウドコンピューティングの課題
辺りだろうか.
しばらく内容、文章とも幼稚なものが続きそうな気がするけど、気になったときに読んでもらって、いいコメントがもらえることを期待しています.